明治十四年にはじまる松方正義の財政改革

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「そのころ、ボロ買いや紙屑買いは、資金も技術もない零細民の職業としては典型的なものだった。饅頭など食品の小売りも貧民的な生産手段であり、大工や左官のような職人は、それよりも手がたい生業だった。」(同p.37)

「広い視野にたって考えれば、日本資本主義のいわゆる本源的蓄積過程の一コマであり、なおたちは、生産手段からきり離された前期的プロレタリアートであった。なおやその子供たちが、糸引きや奉公などの一時的な雇傭関係にはいるか、さもなければ、饅頭屋やボロ買いなどの資本のほとんどいらない小商いによって生活しようとしたことは、その前期的プロレタリアートとしての性格をよくものがたるものである。」(同p.57)

「筆先には・・日本近代史上に著名な事実への具体的な言及は見られない。しかし、それは、なおのような最底辺部の無学文盲の民衆の立場からは当然のことであって、欧米列強による衝撃のもとで、天皇制国家の強権的主導権のもとに近代化してゆく日本社会の動向が、全体として「金銀の世」「利己主義(われよし)の世」「獣類(けもの)の世」ととらえられたのである。近代化=文明化してゆく日本社会をトータルに批判するという筆先の立場に、幕末維新期以来の歴史的諸条件がなおの生活にどのような性格の刻印を刻みつけてきたかがよみとれるのだといえよう。」(同pp.63-64)

・没落する小都市の職人の家の子として

「なおを身ごもったそよは、家計の窮迫を思って減児(堕胎)の心づもりであったが、姑の反対でなおを生んだという・・

「そよは、つらいことは自分ひとりで耐えてひきうけ、まだごく幼いなおには母親らしい愛情を注意ぶかく注ぐ女だったろう・・

「しかし、夫との関係はまだ困難をきわめ、一家は急速に没落しつつあったから、なおたちを保護し一家をささえるという役割を、そよは病身で懸命にひきうけなければならなかった。それは、表面的には従順で奴隷じみてさえいるが、じつはきわめてしんのつよいひとつの生き方であり、歴史的な背景をもった日本の民衆の生の様式であった。

 

 (安丸良夫出口なお』,岩波現代文庫)

こうしたイメージャリィは、思想史的には、日本の民衆が歴史のなかで育ててきた理想世界像のもっともあざやかな結晶化だといってよい。民衆は、ごく一般的には、自分の願望や夢を言葉にならないうちに抑圧して、支配階級からあたえられる世界像をあいまいに受容して生きるのだが、困苦の生活と変革的状況がふかまるとき、民衆の自意識は支配的思想からみずからを剥離し、独自の理想世界についてのイメージャリィを育てるものである。日本の民衆意識の伝統において、こうしたイメージャリィは、基本的には、家族を単位とした勤勉で篤実な労働(とりわけ農耕)とその成果のゆたかな享受ということであり、天地自然はそした民衆の努力と享受を保証している本源的な神性だということであったと思われる。[...]こうした世界像は、おそらく小生産者大衆の千年王国ユートピアと呼びうるものである。[...] もちろん、こうしたユートピアは、封建制から資本制へと展開していく歴史の大法則の大きなうねりのなかに生まれた、中小の渦としての幻想であり夢であって、民衆は [...] 歴史の大法則のなかに巻き込まれ、その内在的論理にしたがって生きるように強制される。しかし、それにもかかわらず、こうしたユートピアの成立は、日本の民衆が、幕藩制国家とも天皇制国家とも異なった、より根源的な解放をめざして自らの諸価値・諸理念を自立化させてきたことをものがたるものにほかならないといえよう。

「困苦の生活と変革的状況がふかまるとき、民衆の自意識は支配的思想からみずからを剥離し、独自の理想世界についてのイメージャリィを育てる・・こうしたイメージャリィは、基本的には、家族を単位とした勤勉で篤実な労働(とりわけ農耕)とその成果の豊かな享受ということであり、天地自然はそうした民衆の努力と享受を保証している本源的な神性だということであったと思われる。」(安丸良夫出口なお』,岩波現代文庫,p.219)

くりかえしのべたように、[出口]なおのような生の様式は、もしそれをとりかこむ条件がある程度まで順調ならば、そうした生の様式を営む人々にささやかに安定した「家」を作らせて既成の社会体制を下から支えるような役割をあたえ、その人間の内面性を既成の体制と価値のなかへ統合するはずのものであった。だが、こうした統合が失敗に終わったとき、なおがひたむきにつらぬいてきた生の様式には、なにか根本的な意味転換とあたらしい輝きが生まれ、そこに拠点を据えてすえて、近代化していく日本社会の全体性が「ざまいて」[=だまして] 開いた偽りの体系として糾弾されることになったのだった。[...] なおの告発は、激越な宗教的終末観の形態をとらざるをえなかったから、手段的な領域では非合理的であいまいだったといえる。しかし、こうした終末観的形態は、なおが既成的な文明のかたちから自らを分離し、その分離を根源的で徹底したものにするためには不可欠なものであり、なおの思想の透徹性の証左となるものであろう。

 

生活事実としての苦難が存在することと、そこから個性的な意味をくみあげることとは、まったくべつのことがらである。後者の道には、苦難を生きぬきそれを逆手にとる、強靱にきたえぬかれた自己がなければならない。

「なおは、日本の民衆が歴史のなかで育ててきた資質を、あるつきつめたかたちでうけつぎ、そこに拠点をすえて、みずからのはげしい苦難からかぎりないほどゆたかな意味をくみとり、私たちの世界のもっとも根源的な不正と残虐性とにたちむかったのであった。こうしてなおは、みずからの生の貧しさを、かえって、根源的な豊かさにつくりかえたのである。 その意味で、なおは、もっともよく戦った人生の戦士だった。」(同,p.265)

伝統的村落社会の解体と右翼ナショナリズム

「この時期〔昭和初期の動乱時代〕、伝統的な風土にねざす思想の側から反権力の思想に対するナショナルな反発が激成されたのは、わが国の資本制が伝統的な村落社会と都市職人社会とを、はじめてその中核において分解しはじめたからだ、ということができる。」 

「・・・人口の圧倒的大部分を構成する村落民と都市流民とは、大正中期まで、共同体的まどろみのうちに閉ざされて、政治舞台にほとんど登場しなかった。彼らの意識の中核をなしている自然観、人間観、ないし価値意識は、西洋市民社会を貫徹する論理と決定的に異質だった。だから彼らは、明治新政府が導入した市民社会的諸体系・・を、全く理解不可能なものとみなし、もしそれと関わりをもたなければならぬことがあれば、天災のような災厄として諦め、出来うることなら、一生それとは無関係に、伝統的な共同体的倫理にしたがって生を終えることを望んだ。」(渡辺京二『維新の夢』,p56) 2018年6月2日

 「伝統的な村落社会と都市職人社会」の分解という現実、それを埋め合わせるように培養された基層生活民の天皇制的共同体幻想という基本的認識なしに戦前の右翼運動は理解できない。そのような構図は総動員体制のなかで消滅したのではなく昭和40年代くらいまでは残っていたといえよう。

「権力の思想と反権力の思想の区分・・・は共同体の圏外の住民である特権的エリートの思想分裂であって・・・彼らの生活に何ら具体的な作用をもたなかった・・・大正中期からはじまった社会の地殻変動は、いわば彼らを包んでいた繭を決定的に破壊したのである。血盟団のテロリストの出現は、そのような共同体民の、政治舞台への登場の象徴であった。・・・彼らを深部で動かしていた衝動は、まぎれもなく個への自覚であった。・・・移入思想としてのデモクラシー、ないし社会主義に同調できなかったのは、そのようなイデオロギーの担い手である都市知識人が、社会的に特権的なエリートとして存在し、下層青年たちの個への自覚が同時に、共同体的なものの再建への熱望でもあることを、まったく理解しようとしなかったからである。日本共同体民の伝統的心性が、反権力の思想的回路を設定しそこなった・・・戦後市民社会は、・・・全国民の近代的市民的統合を、一見みごとになしとげたように見えながら、深部においては、伝統的な心性がもっともラディカルな革命への衝迫をさそい出すという、矛盾をなおたたえ続けている・・・」(渡辺京二『維新の夢』,pp.57-8)

至上の幸福、「極楽」

勤勉・倹約・正直・憐み・・、その成果としての農産物などのゆたかさ、それを享受すること

「困苦の生活と変革的状況がふかまるとき、民衆の自意識は支配的思想からみずからを剥離し、独自の理想世界についてのイメージャリィを育てる・・こうしたイメージャリィは、基本的には、家族を単位とした勤勉で篤実な労働(とりわけ農耕)とその成果の豊かな享受ということであり、天地自然はそうした民衆の努力と享受を保証している本源的な神性だということであったと思われる。」(
安丸良夫出口なお』,岩波現代文庫,p.219)

 

「なおは、日本の民衆が歴史のなかで育ててきた資質を、あるつきつめたかたちでうけつぎ、そこに拠点をすえて、みずからのはげしい苦難からかぎりないほどゆたかな意味をくみとり、私たちの世界のもっとも根源的な不正と残虐性とにたちむかったのであった。こうしてなおは、みずからの生の貧しさを、かえって、根源的な豊かさにつくりかえたのである。 その意味で、なおは、もっともよく戦った人生の戦士だった。」(同,p.265)

 

 戦前の新興宗教の多くが天皇制ナショナリズムに同一化していったなかで、「抑圧された民衆の立場をもっとも戦闘的に代表する宗教」(安丸)をつくり出した出口なおという一生活民の思想的意味については、このような時代だからこそもっと言及されてよいと思う。

明治十四年にはじまる松方正義の財政改革

「そのころ、ボロ買いや紙屑買いは、資金も技術もない零細民の職業としては典型的なものだった。饅頭など食品の小売りも貧民的な生産手段であり、大工や左官のような職人は、それよりも手がたい生業だった。」(同p.37)

「広い視野にたって考えれば、日本資本主義のいわゆる本源的蓄積過程の一コマであり、なおたちは、生産手段からきり離された前期的プロレタリアートであった。なおやその子供たちが、糸引きや奉公などの一時的な雇傭関係にはいるか、さもなければ、饅頭屋やボロ買いなどの資本のほとんどいらない小商いによって生活しようとしたことは、その前期的プロレタリアートとしての性格をよくものがたるものである。」(同p.57)

「筆先には・・日本近代史上に著名な事実への具体的な言及は見られない。しかし、それは、なおのような最底辺部の無学文盲の民衆の立場からは当然のことであって、欧米列強による衝撃のもとで、天皇制国家の強権的主導権のもとに近代化してゆく日本社会の動向が、全体として「金銀の世」「利己主義(われよし)の世」「獣類(けもの)の世」ととらえられたのである。近代化=文明化してゆく日本社会をトータルに批判するという筆先の立場に、幕末維新期以来の歴史的諸条件がなおの生活にどのような性格の刻印を刻みつけてきたかがよみとれるのだといえよう。」(同pp.63-64)

 

生いたち

・没落する小都市の職人の家の子として

「なおを身ごもったそよは、家計の窮迫を思って減児(堕胎)の心づもりであったが、姑の反対でなおを生んだという・・

「そよは、つらいことは自分ひとりで耐えてひきうけ、まだごく幼いなおには母親らしい愛情を注意ぶかく注ぐ女だったろう・・

「しかし、夫との関係はまだ困難をきわめ、一家は急速に没落しつつあったから、なおたちを保護し一家をささえるという役割を、そよは病身で懸命にひきうけなければならなかった。それは、表面的には従順で奴隷じみてさえいるが、じつはきわめてしんのつよいひとつの生き方であり、歴史的な背景をもった日本の民衆の生の様式であった。

 

 (安丸良夫出口なお』,岩波現代文庫)

 

・なおの自己形成

一家の没落と困窮
「なおの生まれたころには、そよのこうした生き方は、すっかり板につき確信的なものになっていただろう・・まだごく幼い乳児期のなおが、こうした母親にふかい一体感と信頼感とをもって結びつき依存することができたことは、その後のなおにとって重要なことであったろう。」(同p.6)

「そよは愛情ふかい熟達した母親として、なおを巧みにはげまし、なおのこうした発達段階をみのりあるものにさせただろう。倹約と几帳面と頑固の三つの性格特徴の共存が、この発展段階と結びつけられるものだとすれば・・なおのばあいは、よくあてはまるように思われる。・・そよは、病身ながら必死になおをかばい、その自己形成の時間と場とをあたえたはずである。しかし、母と子の小世界をとりかこんでいるもっと苛酷な世間の存在が幼いなおに自律性の獲得をいそがせ、またそうした性格特徴をつよめさせたのではなかろうか。」(同p.7)